私の思うエドガー

私が理想に思うエドガーのことを書き綴っていく。

【エドガーは国王だ】

エドガーは国王だ。どうあっても国王だ。なにがあっても国王だ。悲しいまでに、あの人は国王然たる生き方を貫いている。
エドガーは常に国のことを思って行動していた。飾りの国王じゃない。名ばかりの国王じゃない。エドガーはいつでも、「父が恥じないような王か?」を心の中で唱えて生きている。
私の思うエドガーは、そういう人だ。

世界が崩壊して仲間と散り散りになっても、エドガーは国のために動いていた。それは仲間なんてどうでもいいとかではなく、仲間はきっと生きているだろうと信頼していたかどうかは私にはわからず、ただ彼にとって「国とそれ以外」を天秤にかけることはないのだろうと思う。

天秤にかけるまでもなく。あの人にとっては国がすべて。17歳で王座に就き、27歳まで生きてきたその10年間は。国王として生きてきたその10年は、決して短いものではなく。その間、国王として生きてきたエドガーには、きっと『国王として』がその心に染み付いているんだろう。

【エドガーは優しい人なのか?】

国王とは全を見るもの。多くの価値観が存在していることを知り、人の数だけ解釈が存在していることを知っている。だからあの人は、人に期待しない。
エドガーは自分にとても厳しい人だと思う。その反面、人には優しいと思う。優しい。『優しい』とはなんだろう?
たとえばエドガーは、自分の理想を他人に押し付けない。自分の価値観を人に押し付けない。自分の解釈を他人に押し付けない。それはエドガーの『自分の理想』が『父に恥じない王になる』ことだから。比べるものがない、比べる対象がない。だからあの人は、寛容に人を受け入れる。
それはきっと、「優しさ」に見えるんだろう。人はそれを「優しさ」と感じるんだろう。
ならばそれは、『慈悲』なんだろうか?

私は思う。本来の『優しさ』もは、『慈悲』なのではないか、と。
自分の村を焼いた軍の兵士が傷付き倒れている。その兵士に手当てをするか。見捨てずに自宅まで運び、手厚く介抱し、傷が癒えたらそのまま立ち去る姿を見送れるか。
彼が生き長らえることによって、新たな犠牲が出るかもしれない。元気になったことで、次に行く村を滅ぼすかもしれない。介抱されている間にこっそり情報を入手し、持ち帰っているかもしれない。

国王という立場に立つと、様々なリスクを想定しなければならない。様々なリスクを回避しなければならない。そうでなければ、何万もの民の命が危ぶまれるかもしれないからだ。
エドガーの言葉ひとつで人が動く。エドガーの行動ひとつで人が死ぬ。エドガーはきっと、それを誰よりもわかっている。

手を差し伸べれば生きていられる人が目の前にいる。しかしその人を助ければ国民が危険な目に遭うかもしれない。
それでも傷付いた人を助けることが「人として正しい行い」なのか?傷付いた人を見捨てることが「王として正しい行い」なのか?それは誰にもわからない。
人として正しい行いをした結果国民が危険に晒されれば愚王と罵られ、王として正しい行いをした結果人が死ねば人でなしと罵られる。
相違する価値観が共存する世界で、万人に受け入れられる思想はどこにあるんだろう。

エドガーは優しい人なんだろうか。優しい、とはなんだろう。他人を受け入れることだろうか。罪を許すことだろうか。リスクを負ってなお手を差し伸べることだろうか。腹を切られてなお笑っていられることだろうか。
エドガーは優しい人なんだろうか。優しいとはなんだろう。私にはわからない。

慈悲で手を差し伸べ、その手を振り払われたことに憤る人がいる。「せっかく手を差し伸べてやったのに!」と。それは優しさなんだろうか?
容易に答えは出せない世界。正反対の正義という名の主観が蔓延る世界。
エドガーはそれを知っている。正義とは主観であり、悪もまた主観であり、正義を貫くためには勝者であらねばならないと。
彼は世界を知っている。理不尽を知っている。相反する悪が横行し、正義が往生していることを知っている。
解釈は自由であるが故に、争いは絶えず続き、その中で万人を納得させる答えなどどこにもないのだと理解している。

人は弱く、脆い生き物だと知っている。だからエドガーは人を許すんだろう。許せることは、優しさか。諦めではないか、妥協ではないか。それは、『優しさ』なのか?
人を許せない。許せない生き方は苦しい。人を許せなければ自分も許せない。自分を許し、人を許していくことを知る。許すことを知っていけば自分を許せるようになり、生きることが楽になる。
そうして許すことを覚えた人は、『優しい』んだろうか?許せる人は優しい人なんだろうか。

他人に期待しなければ怒ることはなくなっていく。怒りは常に、なにかを期待する気持ちと、それが叶わなかった虚しさ、悲しさから生まれるものだからだ。怒りの裏には常に悲しみが隠されている。
それならば、怒らない人は優しいんだろうか?確かに寛容という意味でいうのならば優しさではあるけれど、それははたして万人の思う優しさなんだろうか。

万人の思う優しさとはなんだろう。エドガーは優しいんだろうか。私にはわからない。
わからないけど、こうやって生きてきて、こんな思いを抱いていたらいいなと思う。そんなエドガーが好きだなと思うし、私はエドガーのこういうところが好きだ。こういう結論に至れる可能性を秘めているエドガーが好き。

これが私の思う理想のエドガー、の、ほんの一部。もちろん他にもたくさんある。

エドガーはロリコンなのか

それは日本人の多くが家族サービスという名の業楽に馳せ参じる5月頭のこと。のび太くんもびっくりの就寝力を身に宿した私は襲いかかる眠気の中ひとつの強い感情に支配されていた。それは「エドガーはロリコンじゃない!!」という定説。その力の勢いたるや、Wikiを引っ張り出しロリコンの定義を紐付けた上での理想論である。勢いはあった。というか勢いしかなかった。
そして今日、私はふと思った。「エドガーはロリコンじゃないのか?」と。なぜ「エドガーはロリコンじゃない!!」をあれほど頑なに貫こうとしていたのか、あいにく今の私には皆目見当もつかない上に理解にも及ばないのでもう二度とその理論を見ることが叶わないのが大変嘆かわしい。なぜ当時の私は睡眠欲に負けて眠ってしまったのか。目を覚ました翌日には「なぜ昨晩はあんなにも燃えていたのか?」と首を傾げていたので完全に勢いしかなかったのだろう。そんなものをぶん投げなくて本当によかった。眠気の魔力の恐ろしさたるや。身震いする。

さて、長ったらしい前述はここまでにしておくとして、ここでは表題の通り「エドガーはロリコンなのか」を考えたいと思う。
しかし約一ヶ月前は「エドガーはロリコンじゃない!!」を必死に説こうとしていたので人間の心理の変化とは実に興味深い。女心と秋の空とはよく言ったものだ。私はそう言う自分が嫌いではないがそれで人を振り回す悪癖がある、反省したまえ。

 

本題

エドガーはロリコンなのか?を考えるにあたり、そもそもなぜ『エドガーはロリコンだ』と言われるのか、その理由を探りたいと思う。
恐らく一番有力な説は『フィガロ城で出会う幼女がエドガーに対して「へいか!ケッコン!ケッコン!」と言っているから」なのではないかと思う。これについてはFF6発売当時Vジャンプに乗っていたスタッフインタビューに下記のような項目があったそうなので引用したい。

―――10歳のリルムを口説くのはダメで、どうして8歳のプリシラはいいの?
田中:プリシラは、縁談好きの母親から、「王妃様になるよ~」と吹き込まれているのです。困ったエドガーは、「大人になったらね」とうっかり答えてしまいます。これが本当のところですね。

ということなので実際スタッフの意図するところではエドガーが口説いたわけではないのだけど、まぁそんなのゲーム中に出てこないんだから知らねーよ!という意見があってもいいと思う。人それぞれ様々な解釈の自由が許される、それが世界というものだ。
私はこれらVジャンプの情報を基にエドガーという人物像を構築しているのでこれを理由にエドガーはロリコンであるを唱えられると上記の事柄を持ち出して「いやでも私はこう思う」と反論してしまいたくなるのだった。人間っていやね。

そして次に思われる理由が、リルムに対して「さすがに犯罪か、やめておこう」と思い留まるところ。私としては『エドガーはロリコン』を考えるならばこちらのセリフを推したい。
先ほどツイッターでも述べたわけだが、エドガーはリルムに年齢を問いかけた上で「犯罪か」と認識したのである。
そのツイートが以下の通り。

 つまり〔レディを口説くことは礼儀〕としているエドガーが、レディに対して口説くことを『犯罪』と認識したわけだ。これだよ!!エドガーがロリコンなのではないかと私が思うところは!!!

それはなぜか?私が思うエドガーの口説き癖というのは彼が言う通りの礼儀、つまりは挨拶のようなものだと思う。顔を合わせれば挨拶をすることが礼儀であるように、その条理のまま彼にとって『女性を口説くことは礼儀』なのだ。つまり『女性を口説かないことは礼儀にかける』のである。そのエドガーがレディを口説かなかった。年に関係なくばあやすらも口説いたというエドガーが、である。
彼にとっての口説きは礼儀、裏を返せばエドガーの〔女好き〕とは私たちが〔犬好き〕〔猫好き〕を主張するのと同じことなのではないか、と思う。散歩中の犬を見て「かわいい」と口にするようなものだ。つまりエドガーにとって、口説き相手は性的な対象ではないということ。彼にとっては綺麗な花を『きれいだ』と口にするようにレディを口説く。それだけなのである。
ならば幼い少女を口説いたところで犯罪にはならないのではないか?なぜなら彼にとって口説きとは礼儀だからだ。年齢を理由に彼の信念を曲げることは、彼にとって礼儀に欠けることと同義ではないのだろうか?少なくとも私の思うエドガー像では、彼がそんな理由で口説くことをやめるようには思えないのである。

そこで考えるのが「さすがに犯罪か」というセリフ。エドガーはレディに声をかけることを犯罪だと思っていない。だがある一定の年齢のレディに対しては『犯罪である』と認識している。つまりこれは、彼が後ろめたさを感じるだけの理由がその背後に存在しているからではないだろうか?
具体的にいうならば、『性的対象』として捉えているからこそ「犯罪か」と思い留まったのではないだろうか?

と、ここまで『エドガーはロリコンである』可能性を考えてきたわけだが、冒頭でも書いた通り私は今日まで「エドガーはロリコンじゃない」と思ってきた人間だ。なので自分でこの定説を唱えながらも現在首を傾げているのである。
その理由として挙げられるのは「そもそもエドガーは女性という姓を持つ生き物をすべからく性的対象としてみているから”こそ”年齢をわきまえて犯罪に至る可能性を考えたのではないか?」ということだ。つまり前述で上げたエドガーの〔女性を口説く〕行動理念を真っ向から否定しているのである。貴様!!自分の主張を否定するとは何事だ!!!
私たちの世界では、というか日本では子どもに手を出すと犯罪である(海外の細かいことは知らないし興味もないので言及はしない)。平たくいうと満18歳未満の人間に手を出すと犯罪である。16歳だっけ?まぁどっちでもいいや。とにかく、何故かもクソもなく【法律で決まっているから】犯罪なのである。法律破ったら犯罪!!
その行為が犯罪に至るまでの過程や法律のなんたるかという言葉の裏に数多と広がる道徳を解き始めると人の数だけの価値観から紐解かなければならないので割愛する。私は別に児童ポルノについてなにかを唱えたいわけではない。興味はあるがそこに割くだけの時間が惜しい。私はエドガーについて考えたいのだ!!
ちなみになぜ人間社会に法律は存在するのか?規律は存在するのか?については7月3日刊行予定ロック×セリスカップリング本「月光花」にてエドガーにちらっと語らせているので興味がありましたら是非手にとってどうぞ!そうです宣伝です!通販あります!

ちらっとだからな!本当にちらっとだからな!そして意図的には『悩むセリスを助言するために飽くまで一部の解釈を伝えた』だけだからその辺は過大解釈しないように頼むー!!人の解釈は怖いんですほんと。勘弁してね。

閑話休題。とにかくそういうことで、エドガーの「さすがに犯罪か、やめておこう」のセリフひとつ取り上げるだけでも2パターンあるのである。だから正直『エドガーはロリコンなのか?』については『わかんねぇ』としか結論付けられない。正解が知りたい方はFF6の世界にトリップしてエドガーに直接聞いてどうぞ。本人から聞けない限り真実は永遠に闇の中なのだ。

ちなみに私個人としては「エドガーはロリコンかもしれない」くらいで推したい。自分の思うエドガーの人物像から上記の「犯罪か~」セリフを汲み解くとロリコン疑惑が浮上するからである。
しかしこの辺りはそもそものエドガーという人物像の解釈によって印象が異なってしまうので、やはり定義づけは難しいのだなぁ。
私の中の理想とするエドガーの人物像を考慮しなければ『ロリコンではない』も成立するんだが、私はどうしても『エドガーの口説き癖は人間が動物愛を持つのと同じベクトル』で考えたい人間なので、後者の理由を成立させる前提が崩れてしまう。人とは難儀な生き物である。
しかしひとつのセリフで真逆の解釈が生まれる可能性があるというのは実に面白い。なるほどなぁ、だから人の世界には絶えず争いがあるのだ。そして力あるものが勝つ。勝者が正義。世界の条理とは理不尽なものである。

と、つらつら書き綴ったものの。私はどうにもエドガーがリルムを好きになるからエドガーはロリコンだ、という説には首をかしげてしまう。
やはりそれは私のロリコンという言葉の定義と、前述のとおり感じる人の『ロリコンという言葉の定義』に違いがあるからなのだろう。
私の思う『ロリコン』とは思想である。特定の誰かに固執するものではなく、特定の誰かを差すのではなく、あくまでも『その対象に当てはまるすべての存在に対するもの』というのがロリコンだ。ロリコンとは思想である。相手がリルムではなくとも町で出会う娘も当てはまる。少女と呼ぶべき対象がわからないが仮に12歳程度と定義づけた場合、12歳未満の少女すべてに適用されるのがロリコンである。
従って「恋した相手がたまたま10歳の少女だった』場合は私のロリコン定義から外れるので『エドガーはロリコンではない』となる。この場合主語はエドガーだが、言葉の意味として重きを置いているのはロリコンだ。『“エドガーは”ロリコンではない』ではない。『その考え方はロリコンではない』が正しい。
なので私が『エドガーはロリコンではない』を論じるのならば恋をした相手がたまたま年下だったというだけであり、仮にエドガーをロリコンと定めるのならばそれはリルムに限らずすべての少女を対象とするべきである。なぜなら私にとって『ロリコン』という言葉の定義がそうであるからだ。

だが、『少女・幼女と定義される年代の女性に恋をした』ことそのものをロリコンと定義づけるなら、リルムを好きになるルートのエドガーはロリコンなのである。この辺りは『ロリコン』という言葉の定義そのものの解釈によっても変わってしまうので、人間というものはやはり難儀な生き物だ。それを汲み解き思考するのが私はたまらなく楽しい。

というわけで以上、エドガー好きの主張、『エドガーはロリコンなのか?』でした。亜咲先生の次回作にご期待ください。

ティナとロックの主人公性を考える。 - ティナ編

どうしてティナとロックは主人公として取り上げられやすいんだろう?というか取り上げられるんだろう?
FF6は『全員が主人公』とうたっているものの、いちいち全員を出すわけにもいかないから絞るしかない、というのはわかってるんだけど、そこで絞られるのがどうしてティナとロックなんだろう?

 

『ゲームの序盤で出てくるから』?

一番わかりやすいというかパッと思い付くのは「ゲームの最初に出てくるから」なんだけど、でもそうすると私が愛してやまないエドガー様もゲームの最初に出てくるから、『ゲームの最初に出てくるから』だと私があんまり納得できない。だってエドガーは最初に出てくるかつ世界崩壊後の仲間にするの強制なんだもの。たぶんFF6キャラの中で一番登場時間多い(と思うのは私が常にエドガーをパーティーに入れているからだ!実際パーティーに入れないとそんなに多くはないぞ!)
なので「最初に出てくるから」はちょっと却下したい。というかそんな安直な理由で『全員が主人公』を覆さないでほしいなみたいなめんどくさい気持ちもある。みんな大好きだもん!

そこで考えたのが、『キャラクター性』かな?ということ。
ティナはFF6という作品で基盤を担っていると思うし、彼女がいなかったらFF6という物語は始まらなかったと思う。でも、ティナが主人公として多くの人の頭に浮かぶのはそれだけではないと思うのです。
私が普段創作していて常々感じていることは、『主人公[一つの作品における焦点、主軸、もしくは視点主]』という存在は、どこかしら『足りない部分が必要』であるということ。
それは同時に「作中で主人公を成長させる」というヒューマンストーリーでもあるわけなんだけど、FF6の作品の中でこの『成長』の姿をもっとも見せているのがティナだと思う。

 

ティナという少女のこと

ティナは物語が本格的に開始したとき、記憶がない状態から始まる。意思もない。記憶もない。感情もない。空っぽ。生まれたばかりのひな鳥みたいな。そんな彼女が世界崩壊後の世界で「子どもたちを守りたい」という気持ちから『母性』という《愛》を芽生えさせた。
最後にティナがトランス状態で飛空艇を導いて空を駆ける姿を思い出すと、ゲーム序盤の彼女をひな鳥と比喩するのは言い得て妙だ。EDで見る彼女は間違いなく空を飛んでいる。自分の意思で、自分の力で空を飛んでいる。彼女は鳥だ。澄んだ空気の大海原を翔る鳥。ひな鳥が自分の翼で羽ばたけるようになるまでの物語。
それがFF6。なのか?そうかも。それも一つのFF6という作品の姿なのかもしれない。

そう考えていくと、ティナというひとりの少女を主軸として始まるFF6という作品の中で主人公の代表をティナとするのは理にかなっていると思う。主人公という言葉を『一つの大きな物語の主となり個人の立場を離れて全体にかかわる公の場で活躍する人』という意味で表わすのならば、間違いなくティナは主人公だ。まごうことなき。ティナ可愛い。

 

ティナは主人公然としている

ティナ自身の性格や生き様はRPGにおいて適格に『主人公然としている』と思う。
例えばそれは、作中における彼女の、常に迷いながら苦しみながら、時には大きな壁にぶつかりその巨大な問題から逃げながらも、自分の心と真摯に向き合いひとつひとつの問題を乗り越えていくという姿
『物語の主人公』としてこれ以上ない彼女の生き様は、あの物語における主人公なのだなと思わざるを得ない。

主に世界崩壊前のことだけど前半でこれだけガツンと心にその存在を刻みつけるんだから、ティナがFF6の主人公の代表として選ばれることに異存はないよ!かわいいし!かわいいし!かわいいなぁ。ティナちゃんはセリスよりおっぱい小さいといいな。

っていうところから見るに、やっぱりティナがFF6の主人公的扱いをされるのは納得しちゃうね。かわいいしなぁ。ティナちゃんを生み出した当時のスタッフの皆様方には足を向けて眠れない。ティナちゃんかわいいです。生んでくれてありがとう。
ティナちゃんかわいいしか言ってない。

 

セリスとティナの違い

じゃあセリスはどうよ?とも考える。セリスだって物語の中で大きく変わった内のひとりだ。しかも世界崩壊後はセリスを動かして話を進める。
セリスがエドガーと合流してセッツァーと再会して、飲んだくれてた彼を激励してファルコンを蘇らせたんだから。セリスがいなかったらセッツァーは一生あのパブで飲んだくれていたよ。
かに すら とも よや 蟹すら友よや ?

ファルコンが飛ばなかったらみんなばらばらのままだったかもしれない。あの世界はケフカに支配されたままだったのかもしれない。だからセリスは必要不可欠なキャラだし、あの役目は彼女だからこそ果たせたのだと思っている。

セリスとティナの一番の違いは、私が思うに『変化に伴う結果が外に向いているか内に向いているか』というところだ。

セリスの変化は内側のものであってある固定のものに対して向いている。いわゆる公私の私に当たる。
ティナの変化は外側的なものであってひとつのことに固定されず開いている。いわゆる公私の公に当たる。

そう言った点でセリスはヒロインであれど主人公ではないなと思う。例えば幼馴染みの男女ふたりが旅するファンタジー作品があったとする。よくあるやつだ。
そうすると主人公は男でヒロインは女になる。ヒロインはヒロインというポジションでいるものの、主人公というと少し違う。ここで言う主人公とはその物語における主軸であり視点であり焦点となる人物のことだ。
そういう意味でセリスはヒロインではあるものの主人公ではない。彼女は物語における『物語の主軸であり、公のために行動する』役回りとは少し違う場所に立っているのだ。シュタゲの紅莉栖に近いかもしれない。私の中で紅莉栖はヒロインだけれどあの話の主人公は岡部とまゆりだと思っている。
すごく半端な例えを出してしまった。シュタゲ好きです。

セリスが物語の序盤で動いているのはマリアと魔導研究所でのところだろうか。その辺りのイベントはFF6という物語を進めていく上で欠かせない存在であるんだけれど、その役割を担うからと言って主人公なのかというとそれはやはり少し違うなと私は思う。重要なモブはたくさんいるものだ。幻獣たちもそうだ。
だからやはりセリスとティナどちらをFF6を代表する主人公キャラとするか?を考えたらティナだなぁと思う。

ちなみにリルムを省いたのは彼女が仲間になるのがだいぶ物語が佳境に入ってからであることと世界崩壊後も仲間にせずとも問題なく話が進んでいくからという点であり、彼女の存在自体にFF6の物語が大きく関わっているかというとそうでもないなと体感しているからである。
個人的な好き度で言えばリルムはダントツ一位なのでそこは勘違いしないでほしい。いやもちろんティナもセリスも大好きだし他のみんなも大好きだけど女の子の中ではリルムを一番多く書いているよ!それはまた別のお話。

 

物語における主人公という役割と生き様について

セリスの立ち位置というのはドラクエで例えるとドラクエ5の主人公の子どもみたいな感じかなと思っている。

主人公はあくまで父親。パパスの息子。彼は勇者ではなかったけれどドラクエ5という作品の中で主人公は誰かと問われればみんなパパスの息子である彼を思い出すんじゃないだろうか。でも勇者は彼じゃなかった。そんな感じだ。
ドラクエ5がわかんねーよ!という人はぜひともプレイすることをお勧めしたい。ここで例に出せるくらいあの作品の物語構成の本質はFF6に近いものがあると思う。ないかな。あると思うんだけどなぁ。
時を越えて行く系の作品が好きならきっと好きだと思うのでお勧めします!実は昔はFFよりドラクエ派のエニクス派だったのだ。

閑話休題

セリスのポジションはドラクエ5主の子どもと近しいと思う。子ども視点で話が進んで物語を進めていって両親を助けに行くけれど、それは主人公が動けない状況に陥ったときに主人公以外の第三者を動かすという【演出】のひとつであり、世界崩壊後にセリスを動かすのも同じようなものなんじゃないかと思っている。

例えばティナ視点で世界崩壊後の話が進んだらどうだろうか?さまざまな困難に立ち向かうといった点ではひとつの物語が生まれるが、FF6という作品から見るとティナ視点はFF6の作風から離れてしまうように思う。
なぜなら彼女は世界崩壊後の世界で戦う力を失いしばらくモブリズに留まるからだ。彼女は主人公でありながら作品の中で停滞する。物語の舞台が『世界』ではなく『モブリズ』になってしまうのだ。
だからティナは、世界崩壊後に最初に動かすキャラクターとしては向いていないと思う。

他のキャラクターも同じようなものだ。例えばエドガー。私の大好きなエドガー。一推しのエドガー。何とも比べられない大好きなエドガー。
彼を世界崩壊後の最初のキャラクターとして動かしたらどうだろう。答えは明白だ。彼は再会したとき『フィガロのために』動いていた。つまりエドガーはFF6という物語の中で『世界という開けた全に対してではなく、フィガロという閉じた全に対して』働いているのである。
ロックもそうだ。彼は『自分のためにフェニックスの魔石を探していた。』他キャラも同じようなことが言える。代わりになりそうなのはマッシュか。しかしマッシュはおそらく「エドガーを探していた』かもしくは『エドガーの力になりそうなことをしていた』ので、彼も世界崩壊後という開始にはあまり相応しくないように思う。

あの時間軸でキャラクターに求められていた役割。それは『次に出会うキャラが誰であっても変わらずにストーリーが進む』ことと『世界崩壊後の【世界】を舞台にできる』ことだ。
エドガーではフィガロになってしまう。マッシュではエドガーになってしまう。ロックではレイチェルになってしまう。セッツァーもリルムもストラゴスも、おそらく全員が『世界』ではなく『個』として向いてしまう。
確かにセリスもシドが死んだルートではロックが生きていることに希望を見出して旅立ったわけだけれど、ロックが生きていることを知らないルートでも旅立つことができる。そこに差異があっても結果は変わらない。

そう考えると、世界崩壊後セリスを最初に動かすというのは理にかなっているように感じる。彼女を最初の視点にしたからこそ、舞台が『個』に留まらず『世界』になった。
だから世界を駆け回って仲間を集めることもできるし、そのままケフカの元へ乗り込むこともできる。

 

主人公然とはなにか。

それじゃあセリスも主人公なんじゃないか。そう考えると、やっぱりそれは違うようにも感じる。
私が思うに、FF6という物語を終結させる上で、ティナの変化は必要不可欠だ。ティナは世界崩壊後しばらく仲間にすることができないけれど、彼女の変化は確実に物語の核心に触れている。

だから世界崩壊後にセリスを動かして物語を進めていっても、ティナの主人公然たるキャラクター性が消えることはない。

主人公に一番必要なもの、それは成長であり変化だと思う。FF6の中で一番大きく変化しているのはティナだ。他のみんなは確固たる意思を持ち目的を達成するために旅を続けていたが、ティナは違う。勝手に巻き込まれて渦中に放り出されて目的もないまま彷徨ってきた。
ティナにとっては手段こそが目的であり、その点が他の仲間たちと明らかに違う部分でもある。
そんな彼女のFF6における時間軸の中での成長こそ、『主人公然』たる証明ではないか。

 

ということで、ティナがFF6の代表という主人公として抜擢された理由のひとつとして、ここに私の考察を記しておく。
あくまでこれは私の個人的な主観に基づいた考察でしかないので、「いやいや主人公はセリスでしょ!」「リルムでしょ!」「他キャラでしょ!」という意見があっていいと思うしその感覚を持ち続けてほしい。欲を言えば私に教えてほしい。新たな視点がほしいのです。
ロックのことは今回の考察で取っ掛かりを見つけることができなかったので、そのうち……。ロックの場合は性格かなぁやっぱり。あと登場回数と物語の核心に常に立ち会っているという点だろうか……。うむむ。

春コミに行ってきました!

お世話になっている方や大好きな作家さん方が春コミに参加されていたので、いそいそと東京まで赴きました。
今まで同人即売会というイベントはFFオンリーとスクエニオンリーしか参加したことがなかったんですが(そのうち一般参加は1回だけ)、まぁ参加してびっくり。入場するまでにあんなに時間がかかるとは……。
あんなたくさんの人、初めて見ました。でもコミケはあれ以上なんですよね。それを思うと……私が参加することは一生ないんだろうなぁと、しみじみいたしましたよ……(ほろり

一般だったということもあって、ゆっくりご挨拶できて、差し入れもお渡しできて、そういう意味でもとっても楽しめました!
FF6サークルさんはもちろんのこと、ゲームスペースにブレデフォサークルさんがいたのでそちらにお邪魔したり、うたわれスペースやDQスペースにもお邪魔しました。
あとは、元々ご挨拶にうかがう予定だったとうらぶサークルさんやおそ松サークルさんなど。
初めそちらから回ろうかと思ったんですが、Twitterですごい列だというのを見て、お昼前くらいにゆっくりと伺いました。
まぁ、多くのサークルさんが完売の札を上げていらっしゃって……びっくりしました……。

せっかくの東京でしたが、その後特に予定を入れていなかったので、お昼過ぎくらいに早々と退散し、夕方頃に帰宅して、ゆっくり戦利品を拝読しました。
結構たくさん買ったので(当社比)まだまだ手をつけれていないお話がたくさん。
実は2月のスクエニオンリーで購入した本もまだほとんど手をつけられていなくて……1日1冊ペースだと次のイベントに間に合わなさそうです(ほろり
やっぱり素敵なご本を読ませていただくわけですから、読んだ方おひとりずつに感想を送りたいなぁと思っていまして。
そうするとゆっくり読む時間を取らないといけないので、なかなか……早く読みたいなぁ!うずうず。
うまく時間を見つけて、素敵なひとときをくださった方々にお礼して回りたいです。

次の予定は7月のスクエニオンリーです!
原稿にはまだ着手していませんが、現時点でロクセリ本、エドガー夢本、フィガロ裏設定考察本の3冊の再版予定があるので、先にそちらの加筆修正等々を終わらせたいと思います……。
こういう改訂版を出す場合、新刊既刊どちらに振り分ければいいのかしら……。同人のことは本当にさっぱりなので、悩み事ばかり。
でもでも、いろんな経験ができて、とっても楽しいです!

テスト投稿も兼ねて

FF6の二次創作はTwitterとPixivだけで細々とやっていましたが、古い生き物なのでサイトという文化に途方もなく安心します……。
というわけで、FF6二次創作を公開するための場所を作りました。更新頻度はぼちぼち。
好きなときに好きなように書いていきます。お付き合いいただけましたら幸いです。